「自分は社会不適合者なんじゃないか」
本気でそう思っていた時期がありました。
新卒で就職せずに語学留学へ行き、帰国後に焦って就職した会社は、職場に馴染めずに退職。そのまま半年ほど、布団から出られなくなりました。
気合いを入れ直して転職した次の職場では、試用期間で解雇されました。
そんな私が今は、神主として神社に奉職しています。
劇的に人生が好転したわけではありません。今でも失敗するし、普通に落ち込みます。
正直、「社会不適合者なのか、ADHDなのか」という問いに、まだ答えは出ていません。
それでも、あの頃の自分には想像もできなかった場所に、気づいたら立っていました。
この記事では、転職の失敗、無職、解雇、そしてブラジルでの1年を経て、私が神職にたどり着くまでの話を書きます。
就活の違和感とフィリピン行きの土下座
大学では、自然環境を学んでいました。
周りが就活を始める時期になっても、「自分は何をしたいんだろうな」という問いが、どうしても消えませんでした。
父が自営業だったこともあり、自分がサラリーマンとして働く姿が、全く想像できなかったんです。
今思えば、宮大工や刀鍛冶のように、黙々と技術を磨く職人の仕事に惹かれていたんだと思います。でも、憧れるだけで、実際に行動することはできませんでした。
「どうせ社畜として働くなら、一度くらい海外から日本を見てみたい」
そう思って就活をやめ、自費でフィリピンへ語学留学することにしました。
両親は、特に反対しませんでした。
それでも私は両親の前で土下座をして、
「許してください」
と言いました。人生で初めての土下座です。
大学卒業までお世話になったのに、就職せずに海外へ行く。ある意味、親への裏切りだと思っていました。あの土下座は、親へのお詫びというより、自分自身へのけじめだったと思います。
留学中は、本当に楽しかったです。
でも、帰国すると、重い現実が待っていました。
当たり前ですが、同級生はみんな働いている。それに比べて自分は無職で、奨学金の返済も始まる。
「マジでやっちゃったかもしれない」
強烈な焦りが、ずっと頭から離れませんでした。
みんなの前で30分怒られ続けた
焦って選んだのは、営業職でした。
大学で自然を学んでいたのに、仕事ではIT系の製品を扱う。最初から違和感はありました。それでも、働かなければと思っていました。
一番きつかったのは、全員の前で長時間怒鳴られることでした。
30〜40分、立ったまま叱責されることもありました。
そして上司から直接、
「学習障害じゃないか?」
と言われたこともあります。
少しずつ、仕事を任されなくなりました。
電話もメールも上司のチェックが必要になり、その間に仕事が積み上がる。終電近くまで残って処理する日が続きました。
朝、会社のトイレにこもって気合いを入れないと、職場に入れない。そんな状態が、何か月も続きました。
ある月曜日の朝、駅のホームに立ちながら、ふと「このまま消えたら楽になるのかな」と思いました。
死にたいというより、とにかく逃げたかったんだと思います。
自尊心はボロボロ。でも、奨学金の返済がある。もう選択肢がないと感じていました。
結局、10か月ほど働いて、退職を決めました。
「辞めます」
そう伝えた瞬間、肩がめちゃくちゃ軽くなったのを覚えています。
最終日の帰り道は、自然とスキップしていました。
自分だけが止まっていた
退職後の解放感は、長くは続きませんでした。
布団から出られない日が、じわじわと増えていきました。外に出るのは、ご飯を食べるときくらい。布団の中で目は覚めているのに、体が動かない。
でも、頭の中はずっと考え事でいっぱいでした。
「なんで普通に働けなかったんだろう」
「みんなは普通にやっているのに」
「自分はもうダメだ」
一番きつかったのは、無職そのものではなかった気がします。
自尊心が、原型を留めていなかったことです。
そんな私を、両親は責めずに見守ってくれていました。でも、その優しさすら少し苦しかったです。
何の恩返しもできていない、「奨学金を抱えた無能な自分」。そう思うと、ただただ惨めでした。
変われたきっかけは、久しぶりに会った大学の友人たちでした。
話を聞くと、順風満帆に見えていた友人たちも、みんなそれぞれ悩みを抱えていました。
「もう一回、やってみようかな」
初めてそう思えて、少しずつ動き始めました。
試用期間で解雇された
「絶対に営業は向いていない。大きな組織も合わない」
そう自己分析して選んだのが、事務職でした。
でも、入社2か月。試用期間が終わると同時に、解雇を告げられました。
その時に何を言われたのか、細かくは覚えていません。
ただ、その日の帰り道に、妙な確信がありました。
「ああ、やっぱり自分って、本物の社会不適合者なんだ」
前回は自主退職でした。今回は解雇です。自分自身に問題があると、はっきり証明された気がしました。
それでも意外なことに、布団の中にこもっていた時期よりは、まだマシでした。もう開き直っていたのかもしれません。
そして、なぜか焼肉を食べに行きました。
ブラジルの最貧州で胸ぐらを掴まれた
解雇のあとは、学生時代にアルバイトしていた弁当屋に戻って、日銭を稼いでいました。
そんな時期に、父の知人から声をかけられました。
「ブラジルに行ってみるか?」
「え、ブラジルですか……?」
聞くと、知人の友人に、戦後に移民一世としてブラジルへ渡り、日系人の中でも成功している方がいるとのこと。当時84歳のおじいちゃんで、人生の最後にもう一度、農業をやろうとしていました。
一通り説明を聞いて、私はこう答えました。
「人生でブラジルに行くことは、もうないと思うので。行きます」
それから1年半ほどかけて資金を貯め、単身でブラジルへ向かいました。
ジャングルに戻った農地と、人生最高の星空
最終目的地は、おじいちゃんが所有する超広大な農地。ブラジルの中でも貧しい州の、さらに奥にある地域でした。
サンパウロから何日もかけて、84歳のおじいちゃんが運転する車で向かいます。
360度、見渡す限りの地平線。何時間走っても終わらない一本道。
日本の「普通」が、静かに壊れ始めていきました。
ついに到着した目線の先には、泥壁でできたボロボロの家。地元の人ですら「あそこはヤバい」と言う家で、しかも携帯の電波も届かない僻地でした。

中に入ると天井はなく、見上げると屋根瓦の裏側がむき出しでした。

さらに、現地に着いてから分かったことがあります。
超広大な農地が、すっかりジャングルに戻っていたんです。
とりあえず、ジャングルになった農地をトラクターで無理やり押し倒して切り開き、耕して、トウモロコシやオクラを育てました。
ここでの楽しみは、夜ご飯のあとに椅子を持って外に出て、星空を眺めることでした。
人工の灯りがひとつもない場所なので、空いっぱいの星と、何本もの流れ星。人生で最高の星空でした。
「お前は中国人か」と胸ぐらを掴まれた
私が住んでいた地域では、ナタをズボンに差して、上半身裸で歩いている人が珍しくありませんでした。馬に乗りながら銃を携えている人もいましたし、日系人の家にも古い銃が置いてありました。

そんなある日、久しぶりに町へ出た時のことです。
見知らぬ男性に、突然胸ぐらを掴まれました。
「お前は中国人か」
当時は新型コロナが爆発的に広がり、外国人への警戒が高まっていた時期でした。
相手がナタや銃を持っていても、おかしくない土地です。言葉もほとんど通じません。
「一歩間違えたら、死ぬかもしれない」
本気で、命の危険を感じました。
私は必死に、片言の英語とポルトガル語で、日本人であることを伝えました。
町は小さく、外国人を見たことがない人がほとんどです。「日本人がこの町に来たらしい」という噂が、その男性にも伝わっていたようでした。
「そうか」
そう言って、男性は手を離しました。
もし答えを間違えていたら、どうなっていたか分かりません。
ブラジルで1年過ごすと、性格も変わります。
言葉も文化も考え方も違う国では、黙っていても何も伝わりません。日本のような「察する」文化はなく、自分の考えをしっかり言葉にしないと、相手は理解してくれません。
「ちゃんと、自分の考えを言わなきゃいけない」
日本では一度も本気で考えたことがなかったことに、異国の地で気づかされました。これが、私にとって大きなターニングポイントでした。
今も話すのは得意ではありません。無口でも通用する関係の中でしか生きてこなかったので、トークの技術はまだまだです。
それでも、ブラジルに行く前と比べると、少しは話せるようになったと思います。
父が死んで神主を目指した
日本に帰国してからは、また弁当屋に戻り、今度は正社員として働きながら、これからどうするかを考えていました。
そんなとき、父が亡くなりました。
正直、最初は現実感がありませんでした。
悲しいとか、辛いとか、そういう感情より先に「本当に?」という感覚。頭では分かっているのに、実感が追いつかない。
誰に連絡して、何を準備して。そういう段取りも、私は全くできませんでした。
父の葬儀は、神道式の神葬祭でした。
神葬祭は、全体的に重い雰囲気ではありません。悲しみがどんどん膨らんでいくような、場の圧みたいなものもありませんでした。
それでも、母は泣いていました。
「母親」としてではなく、父の妻として。一人の女性として泣いている姿でした。
臨月だった姉も、隣で泣いていました。
その横で、私だけ、一滴も涙が出ませんでした。
神葬祭の流れやマナーは、遺族として経験したことも交えて、こちらで書いています。

父が残してくれた道を歩いてみる
父は、自営業をしながら神職の資格を持っていた人でした。本業は神職ではありませんが、資格は持っていたんです。
このまま今の会社で働き続けるのか。それとも、父が残してくれた道を選ぶのか。
「このままは嫌だな。せっかく父が残してくれた道がある。だったら、一度歩いてみよう」
そう思って、神職を目指すことを決めました。
神社界のことは、全く知りませんでした。収入も働き方も分からない。それでも、とにかく動きました。
最初の壁は、講習会に参加するための推薦状でした。
推薦状は2通必要です。1通は、父が所属していた神社の宮司さんに書いていただきました。もう1通は、その神社を通して神社庁にお願いし、神社庁での面接も受けました。
神社界のことを何も知らない私にとっては、手続きのひとつひとつが初めてのことばかりでした。
講習会に入ってからも、苦労の連続です。
受講生の多くは神社関係者で、講師も「神社のことはもう知っているよね」という前提で話を進めます。とにかく専門用語が多く、ついていくだけで必死でした。
なんとか資格を取ったあと、父が所属していた神社に、合格の報告に行きました。
「ここで奉職させていただけませんか」
その思いも伝えました。
ハッキリと断られたわけではありません。でも、その時のやりとりから、私は「ここで奉職するのは難しい」と受け取りました。
資格を取ったら終わり、ではありませんでした。
そこから、一から奉職先を探すことになったんです。
遠方の神社に奉職することになった経緯は、こちらで書いています。

推薦状、講習会、奉職先探し。神職になるまでの道のりは、こちらで詳しく書いています。

社会不適合者のまま、それでも神職が天職だと思う
神職になったからといって、すべてがうまくいったわけではありません。今も失敗します。
昨日も、ミスをしました。
「社会不適合者かもしれない」という問いに、今も答えは出ていません。
ただ、神職という仕事は、営業のように、自分から売り込んで成果を出す仕事ではありません。
困ったことがある時。悩んでいる時。人生の節目を迎えた時。参拝者の方が神社に来てくださいます。
その時に、自分の力を発揮できる。先輩や上司にも恵まれました。
こんな自分でも、誰かのためにご祈祷ができている。
だから今は、思います。
「神職は、自分にとって天職だったんじゃないか」
止まっている時は、もう終わったと思っていました。
でも振り返ると、布団の中にいた時間も、ブラジルにいた時間も、解雇された日に焼肉を食べた夜も、全部その途中でした。
もし今、自分の人生が止まっている気がするなら。苦しいものは苦しいです。「焦るな」とは言えません。
ただ、布団から出られなかった頃の私は、神職を天職だと思える日が来るなんて、想像もしていませんでした。
今、本当につらい人は、一人で抱えずに誰かに話してください。厚生労働省の「まもろうよ こころ」では、電話やSNSで相談できる窓口が紹介されています。

それぞれの時期にもっと詳しく何があったのかは、noteの「人生立て直しシリーズ」で書いています。

ここまで読んでくださり、ありがとう。
良い一日を。

